藪入りは現在の日本では完全に無くなった年中行事です。
昭和初期までは残っていましたが、七曜の導入・労働基準法の強化に伴い無くなりましたが、落語や時代劇には時折登場する言葉です。
藪入りとは何なのか、詳しく説明します。
藪入りとは
- 読み方:やぶいり
藪入りは、商家などに住み込み奉公していた丁稚(でっち)や女中など奉公人が実家へ帰ることが出来た休日です。
旧暦の1月16日と7月16日が藪入りの日にあたっていました。新暦に切り替わった後もほぼ新暦の1月16日・7月16日に行われていました。
昭和初期くらいまで残っていたが七曜の導入(日曜日休日)や労働基準法の強化により廃れていき、現在ではそもそも年間2日間のみ休日は法律的に行うことが出来ません。
丁稚・女中について
丁稚や女中というものが徐々に理解出来ない人も増えていると思います。
明治時代までお金の無い農家等では子供を育てるだけのお金が無いため、住み込みで働かせてもらえる丁稚・女中というのは、致し方ないものでした。
ただ丁稚・女中が必ずしも悪いというものではなく、一定期間働くことで「暖簾分け」という今で言えば、フランチャイズのような感じで自分で店を持つことが出来ていたということもあります。
なお昭和くらいまでは「丁稚」という言葉が残っており、中卒で就職する人に対して差別的な意味で「丁稚」といったりしていました。
今でも旅館等の女性の従業員に対して「女中」という言葉を使う人もいます。
藪入りの成り立ち
藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代とされています。
本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされていますが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じていったそうです。
藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされています。
そのうちに、地獄で閻魔大王も休み日である「賽日」であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになりました。
閻魔堂も十王堂も現在ではほぼ存在しないため、何かわからないと思いますが、簡単に言えば「お寺」です。縁日は今でいう露店・屋台が立ち並ぶものではありませんが、江戸末期からはほぼ今の露店・屋台が立ち並ぶものとなりました。
縁日は神仏と縁がある日という意味で、参拝するとよりご利益・ご加護があるとされた日で、多くの人が参拝するようになっていき、それに合わせて・露店・屋台も多く出るようになりました。
明治・大正・昭和初期の光景となる藪入り
藪入りの日となると、主人・店主は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出したそうです。
実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだそうです。
また、遠方から出てきたものや成人したものには実家へ帰ることができないため、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しんだそうです。
文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となっていきました。
藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展したと言われています。
第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになりました。
藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残しているだけとなりました。
藪入りの語源
なぜ休日を藪入りと言ったのか、語源に関しては明確なことはわかっていません。
藪の深い田舎に帰るから、宿入り(実家に帰るの意)から藪入りになったとか、いろいろとありますが明確なものはありません。
藪入りに関すること
藪入りに関することを記していきます。
現在も残り藪入りは落語とドラマの世界
藪入りというものは現在でも落語の世界と時代劇の中で見ることが出来ます。
ただ藪入りという言葉が出てきても、藪入りの意味がわからないと人が増えているため時代劇などでは「休日をいただいた」と言い換えていることも多々あります。
ただ落語の「藪入り」に関しては、藪入りを知らない人が聞いても何が面白いのか分からないかもしれません。
落語が楽しめる=歴史をしっかりと知っている というようになってきました。
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